@article{oai:obihiro.repo.nii.ac.jp:00004710, author = {Sugita, Satosi and 杉田, 聡}, journal = {帯広畜産大学学術研究報告}, month = {Nov}, note = {application/pdf, 本稿を私は「ドイツ詩の文法」と題したが、最初に「ドイツ詩」およびその「文法」の意味について、くわえて本稿を書くきっかけとなった直接の事情と今後の見通しについて、若干のことを記しておきたい。  「ドイツ詩」とは  「ドイツ詩」は、正確にはドイツ語詩である。ここで「ドイツ」は政治的概念ではなく、文化的概念である。だが、本稿では簡明を期して「ドイツ詩」と記す。こうすることで、複合語をつくる際に表現が煩瑣になるのを避けたい。また参照した各種文献を見ても、「ドイツ詩」という言い方が一般的である。つまり、ドイツ語でつづられた詩全体が――それがオーストリアのものであろうとドイツ国内の「方言」であろうと――本稿の対象である。現在は方言さえしばしば文字として書かれることで規範化される傾向があるが、規範化に抗する民衆の話しことば(民謡Volksliedや学生歌Studentenlied等における)をも対象に含めた(ただし例えば「ねえママ、欲しいものがあるの!」Och Moder, ich well en Ding han! のように共通ドイツ語Hochdeutschとの違いが大きい語彙が並んでいる場合には、取り上げなかった)。 実は私がドイツ詩を読むようになったきっかけは、リートへの関心である。だから私が読んだ詩は、作曲家が付曲した詩であることが多く、その意味で偏りがあるかもしれない。詞華集(アンソロジー)ではとり上げられることの少ない、あるいは全くない「群小」の詩人をもとり上げているのは、そのためである(→引用詩一覧)。 そして私の関心がリートだったために、本稿では主に新高ドイツ語による詩を扱うが(それもリートの発展に合わせてほぼ18世紀以降〜20世紀初頭のもの)、時にはその後の現代詩や、逆に18世紀以前の古い詩を扱うこともある。また詩の理解のために、しばしば中高ドイツ語に言及する。 なおここで「リート」とは、主にピアノ伴奏による芸術歌曲の意である。一方、ドイツ語Liedは、芸術歌曲を含む各種の歌(例えば上述の民謡, 学生歌)ばかりか、詩をも含意している。しかもそれは、「叙事詩」(独和大‘Lied’)――叙事詩はかつて一定の節回しの下に語り(歌い)つがれて来たので あろう――のみならず、ゲーテの「さすらい人の夜の歌」Wandrers Nachtlied、「羊飼いの嘆きの歌」Schäfers Klagelied、あるいはメーリケの「妖精の歌」Elfenlied等に見られるように、抒情詩をも含んでいる。この点は日本語でも同様である。藤村の「千曲川旅情の歌」のように。 そして歌うsingenというドイツ語は、詩にも使われる。ゲーテは、詩は「読む」ものではなく「歌う」ものだと記しているが――Nur nicht lesen! immer singen!(Goethe, An Lina「単に読むのではない! とにかく歌うこと!」)――、それは、節回しをつけて歌うことではなく、韻文としてのリズムを意識して読むことを意味している。 「文法」とは  文法は総じて規範性を要求する。「文法」は、古代ギリシャ語のgrammatikē、つまり文字grammaの技術technēから造語されたことばの訳語であるが、日本人が訳に用いた「法」という言葉は、grammatikēの役割をよく示している。文法は、言語利用の状況を分析する用具であるにとどまらず、ことば使いの正誤・良し悪しを判定する規範として一定の強制力を発揮せざるをえない。 だが、本稿で重視するのは、いわば詩の事実性である。本稿の課題は、規範意識をもって詩を評価することではなく、むしろそうした態度を排しつつ、現実の詩の多様性を記述することである。 要するに、ドイツ詩が、音韻・語彙形成・統語法・語句への意味付与等においてドイツ語の規範文法から自由であり、その意味でむしろいかに文法の規範性を逸脱しようとするかを、論ずる。 例えば、主文において強調したい単語・句を文頭に置いた場合には、次の位置に動詞が来るのが、また、副文における定動詞は文末に来るのが、新高ドイツ語の文法的規範であり、これを逸脱した文は「非文」(非文法的な文)と見なされる。だが、詩はこれらの規範からは自由である。ハイネのように、日常のことば使いによって(したがって規範文法どおりに)分明な詩をつづる詩人もいたが、たいていの詩は、韻律上もしくは押韻上の制約から、あるいは――それ以上に――詩脚の並びが作り出すリズムや押韻を重視する立場から、むしろ規範文法を意図的に、もしくはやむなく壊す。そうすることなしに、詩はなり立たない。 もちろん、事実性も蓄積されればしばしば規範となる。少なくも、規範として機能することがある。規範からの自由を本質とする詩においても、いわば特有の「文法」が、歴史的に形成されてきたと言えるかもしれない。ドイツの詩が、ドイツ語の規範文法を逸脱する仕方で生みだされつつも(だからやはり慣れないと非母語話者にはドイツ詩は難解である)、それでも一定の規範が、つまり詩特有の音韻規則・造語法・構文法・比喩法等が、ひいてはたしかに「文法」と呼べそうな規範の体系を摘出することはできる。例えば「中性単数1,4格名詞につく形容詞の強変化語尾esは省略できるが、他の場合はおおむね許されない」といった、詩において見られる規範の集成として。 こうした、弱いとはいえ一定の力を有する規範の――もっとも詩人は常にそこから自由に創作するのだが――体系をまとめるのが、本稿の一面の意図である。ただし事柄によってはその規範力は弱く、「文法」というよりむしろ解釈者・鑑賞者にとっての認識枠組みと言う方が適切な場合さえある。例えば「本来冠詞がつくべき場所に、詩では冠詞が置かれないことがある」という現象は、もはや規範文法からの逸脱とは見なされないだろう。積極的にせよ消極的にせよ、それは詩という 文芸形式から導かれる必然的な技法だからである。 本稿では、ひとまずドイツ詩の「文法」という言葉を用いるが、私の記述は以上のような意味をも含むものと理解いただきたい。以下、一般的な文法理論の区分を借りて、第1章で音韻論、第2章で形態論・語彙論、第3章で統語論、第4章で意味論・語用論を論ずる。 ただし、この区分は厳密なものではない。これらは、文法理論の下位体系というより観点であって、互いに他を想定せずにはなり立たないからである。実際一般の文法書は、主に品詞論を中核とし、以上の観点をないまぜにして記述されている。それゆえ第1〜4章は、おおまかな枠組みと理解いただきたい。  直接の事情と今後の見通し  付随的に、本稿を書くことにしたより直接的な事情と今後の見通しを、簡単に記す。私は5年ほど前から、地元の文化センターで「ドイツリートを原詩で楽しむ」という講座を担当してきたが、その苦労は小さくなかった。日々ドイツ詩を読み資料を準備しつつ、詩に特有の語法に翻弄され、『ドイツ詩の文法』の類があればと何度思ったかしれない。若干の注をつけた、ドイツ詩ないしドイツリートの選集はたしかにあり(生野他、佐々木、三浦、高橋②、野村等)、それなりに参考になるが、いかんせん個々の詩文に関する個別的な注では限界があると感じた。 とすれば、『ドイツ詩の文法』を、私自身が書くしかないと思うようになった。もちろん、私の非才さ・浅学さ・読書の偏りから限界は大きいが、試みに、これまでの考察を公にして、識者の批判をあおぎたいと判断した。現在の見通しでは、本稿は大部のものとなる可能性が高く、とうてい簡潔で手頃(コンパクト)なものとはならないが、後日、そうしたものを再度まとめるべく努力するつもりである。}, pages = {107--170}, title = {ドイツ詩の文法(1)}, volume = {41}, year = {2020} }